1月15日、嶋村明先生を通してのご縁にあずかり、金井竹徳先生にお友達と一緒に沼田城を案内していただきました。私にとって忘れられない貴重な出来事だったのですが、大きな出来事というのは、なかなか文章にするのに勇気が要り、今日にいたりました。改めて文章にしてみると、当時のことが鮮明に思い出されます。あの頃はまだ雪が積もっていました。そのときの空気の冷たさもよく覚えています。
沼田に向かうとき、中山城址の前を通りました。岩櫃城と沼田城との中間に北条氏が築城したもので、真田氏と北条氏とがぶつかりあった境目の城だったとのこと。(真田氏の攻撃により落城)


沼田城付近から真っ白な谷川連峰が見えました。谷川連峰は標高がそれほど高くありませんが、日本海側なのでたくさん雪が積もるのだそうです。

金井先生にお会いし、沼田城址を案内していただきました。この公園は、沼田城が廃城になったあと草っぱらのようになっていましたが、久米民之助氏が故郷への恩返しとして沼田城址を私財を投じて購入して整備し、公園として市民に開放されたとのこと。久米氏の故郷への思いが今も引き継がれているのですね。


沼田城の周りには何重にもお堀が張り巡らされ、今もその名残が一部残っています。










捨曲輪に来ました。

この近くに、平八石という首さらし石がありました。

そこで、学んだことをまとめます。
・鎌倉時代に相模の三浦氏が群馬に落ちてきて、その一部が沼田氏となった。沼田氏は300年続くことになる。1532年、12代目顕泰が沼田城を築く。
・沼田氏は上杉氏についていたが、その後、城は北条氏のものとなる。沼田平八郎が城の奪回を計るが真田昌幸が謀殺し、真田氏が城主となる。(北条氏は滅亡)
・謀殺について:平八郎は顕泰の側室の子。顕泰は嫡男に沼田城を譲り、平八郎とともに川場村に行った。しかし、側室の兄金子泰清にそそのかされ嫡男を謀殺。のちに平八郎は沼田に戻り沼田城の奪回を計った。すると、昌幸の命令で金子泰清は平八郎を城に呼び出し、「城を明け渡す」と言って油断させ謀殺した。
そんな恐ろしいこともありましたが、そこから見る山々の風景は雄大で、昔も今も変わらないのでしょう。


捨曲輪から本丸御殿に戻り、大門を抜けて駐車場に戻りました。




このように沼田城は、段丘崖の上に建てられ、高低差の少ない東側と南側は何重にも堀を張り巡らせて守られていましたが、金井先生のご案内でその様子がよく分かりました。沼田藩は1681年改易となり、立派な城は取り壊され堀も埋められてしまいましたが、近年の発掘調査の資料を拝見し、発掘された地下の遺物が様々な手法で丁寧に分析され、沼田城の様子が詳しく描き出されていることを知りました。おかげさまでこのブログを書く際も、現在の公園の姿と調査で明らかになった沼田城の様子とを重ね合わせながら確認することができました。